統合趣味環境

その都度、気になったことを綴ります。

ゼロから始める八丈島旅行計画

なぜ八丈島なのか

非日常を,味わいたくはないか?

都会にいると,ビル群に囲まれて鬱になる.

なんか,こう,ヒト以前に生命体として大事な何かを失った気がする

あーあ,何も考えなくていい場所に行きたい.

すると,おぼろげながら浮かんできたんです,島嶼部という語が...

それに,なんか学生っぽくてイイ

近すぎるのも遠すぎるのもイヤだし,ここは八丈島で手を打とうじゃないか.

というわけで,

海!空!島!

みたいな理想の風景を思い描いている.

とはいえ曇りの多い島であるらしい.過度な期待はしないでおこう.

八丈島へ行こう

船の予約

飛行機なんて乗りません.船です.

絶海の孤島を味わうには,ぜひとも船で行くべきです.

東海汽船の客船に乗って,竹芝から10時間半くらいで行けるみたいです.

学割あります.私は電話で予約.

最初は自動音声ですが,途中からオペレータさんに切り替わります.

極貧学生の気分なので,二等の雑魚寝席で行こうと思います.

船旅の概要

竹芝 22:30 → 三宅島 5:00 → 御蔵島 6:00 → 八丈島 8:55

youtubeの八丈旅行記を見ていると,最初の寄港地である三宅島に到着する前の4:00くらいに,室内灯が全部つくらしい.まあ,安い席を買うからなのでしょうけど...

寝れるのだろうか

それと,普通の人間は寝る前にご飯を食べて風呂に入ったりすると思うが,船内にもレストランがあるし,共用シャワーも完備だ.お金を積むと部屋にシャワーが付いたりする.

しかし出発も遅いので,夕飯は陸で食べることにし,風呂は家で浸かって来ようと思う.

実は前にサークル関係のイベントで,伊豆大島に行ったことがある.その際には竹芝ターミナル近くの「ゆで太郎」で済ませた記憶がある.

八丈島に泊まろう

民宿かホテルか,それが問題だ.

ここで私は地元の店を開拓したかったので,ホテル素泊まりを選択.

八丈島を車で回ろう

極貧学生ゆえ,最初は徒歩強行軍を模索...

うーん,思ったより島が広いぞ.

広いというか,2つある山が曲者.

道がグネグネしてるし起伏はありそうだし,車しかないな.

レンタカーを予約

八丈島でご飯を食べよう

島寿司,というものがあるらしい.

これは,ヅケにされたタネ,そしてからしの和えられた特殊なシャリに特徴づけられる島の伝統料理らしい.

いろいろ店はあるけど,どこも電話予約が必須.

昼に寿司を食べ,夜は居酒屋に乗り込む,かな.

八丈島を観光しよう

ダイビング目当ての人も多いみたい.

でも私は泳ぎませんよ.それにまだ2月だし.

今のところ行った方が良さそうなポイントは,ここだ.

そして航空ファンとしては八丈島ORSRも見逃せない.本邦航空局はこれによって上空15,000ft以上の監視能力を獲得しているらしく,航空機同士の間隔を正確に知るためなどに利用される重要設備なのだ.

特に八丈島SSRモードSの高機能レーダーに改修済みらしく,見ても分からないだろうが一見の価値があると思う.

ちなみにGoogleマップにすら場所が載っていない超極秘施設(笑)だが,航空写真で見る限り,えこ・あぐりまーとの近所だと判明している.

近所にRCAG施設もあると睨んでいる.

八丈島

事前学習は欠かせない.

ここでは江戸時代の八丈島をみてみよう.

早速だが八丈島は歴史的にかなり明暗のある島に思える.

以下はネットの情報と,大学で借りた『江戸時代の八丈島――孤島苦の究明――』によるところが多い.

注意:以下,とがった内容が多いので折り畳みとした.

詳細はこちら

名称由来

ちまたで有力なのは八丈絹に因むという説だろう.

それでは絹の「八丈」というのに別の由来があるのではないかと疑うかもしれないが, 八丈はサイズのことであって,織物固有の名詞ではないから,「八丈」の由来は「八丈絹」ただこれに帰着される

後に記すように,かつての島における黄八丈の重要性は筆舌に尽くしがたいほどであり,一見して安直なネーミングではあるものの,この島の名が意味する真の重みは計り知れないと感じた.

政治支配

室町のころには奥山宗麟が,のち小田原北条氏が支配したようだ.江戸にはもちろん徳川の支配下に置かれた.

しかし幕府が送ってくる島役人はカタチだけであり,実質的に支配者的存在だったのは,地役人こと島の有力者だった.

支配されれば年貢を納めねばならないが...八丈島は絶海の孤島で,作物もよく育たない.そこで,いずれの時代にも,八丈絹を米の代わりに納めていたようだ.

もっと言えば,逆に織物を納めて米をねだるという慢性的な食糧不足ぶりだった.

流人

「鳥も通わぬ」絶海の孤島といった文言に加え,八丈島と言えば流罪人の島」とも文献に書いてあった.

前者はともかく後者に関してはその通りで,江戸時代に相当数の流罪人が送られたのは事実だ.

最初に送られた流罪人は宇喜多秀家といわれる.

五代将軍:綱吉のころから頻繁に罪人が送られるようになり,食糧問題はさらに深刻な問題となった.

どんな罪で送られたのだと問う人がいるかもしれないが,これには少々微妙な点がある.内訳をみるに女犯の僧侶が多いようだが,これを素直に受け取るのは危険だ.

どうやら当時,日蓮宗の一派が弾圧を受けており,必ずしも罪状通りの罪によって遠島されたとは言えないらしい

流人が島に行くまでの流れ

八丈島版:流人道中記,ではないが文献に詳しく書いてあった.

  • 前日に牢屋見廻りが囚人一同を呼び出す
  • 手鎖・腰縄で連れ出される
  • 市内の髪結に連れていかれる
  • 入用のものを渡される
  • 身分に応じて駕籠なり羽交い絞めなりで与力に引き渡され,罪状改め
  • 伊豆代官手付の者に渡される
  • 永代橋近くの三宅島行きの船で出帆
  • 途中,浦賀番所の流人改めを受ける
  • 三宅島へ
  • 三宅島役所の責任で船を雇われ,数か月後の順風を待って八丈へ送られる

八丈に着くと,くじ引きなどでどの村に配置されるかが決められた.文献には明記されていなかったが,おそらくこれは流人が多くなって少し厄介者のようになってきた江戸後期の話で,まだ流人がまれにしか送られてこなかった時代には割と歓待されていたようだ.

流人の生活

武士や僧侶などの流人は島人の教育係となったり,大工は神社再興だとか江戸風の民家を建てるだとかで役に立っていたそうだ.

また八丈は無医の島であったから,平時には素人療法・あやしげな加持祈祷が横行した.従って医者,ないし薬の調合を多少知っているだけの者でも流されてくると重宝された.もっとも,罪人の中には遊び人だっているわけで,なかなか島の風紀を乱してくれたらしい.

また罪人の結婚に関してだが,独身で過ごすのもしんどいので,大抵は水汲み女という名称で,島の女性を妻として生きたらしい.ただ女性問題で島人と紛争を起こした者は相当あったようだ.

何にせよ,流人もまた食糧難の被害者であった.

宇喜多秀家は83歳で亡くなる際,「せめて米の粥を食って死にたい」と言った,という話が残されている.

また永見大蔵は米を求めても売ってくれる人がおらず,千両箱を枕に餓死したらしいという話が残されている.

彼らは比較的恵まれた流人だと思われるが,生活に根の張っていない並みの流人は悲惨というほかないような状態であり,流人が凶作における一番の被害者であったといってもよい.

ちなみに千両箱のくだりだが,島では物々交換が長く行われており,そもそも金貨銀貨などが意味をなさなかったのではないか,とも言われているようだ.

刑罰

そんな状態に耐え切れず,飢饉の際に流人はまれに島の脱出を企てた.これは事前にばれたり,追いかけて行って見つかるなどすることが多かったようだ.

問題はその後の刑罰だ.

脱走犯が見つかった折には死刑となるわけだが,島にはもともと刑場などなかった.

ここが少々興味深いところだが,島では古くより血のケガレを嫌い,幕府に上納する織物を織るという点でもケガレを忌避する動きがあったそうだ.従って死刑の場合には海中へ突き落として刑を執り行っていたらしい.

とはいえ,その後,底土が浜にて刑が行われるようになった.

この血のケガレについては,後に記す「他屋」の節にも関連するので,興味があればそちらも見てほしい.

一般の島人たちも犯罪を犯すことがあるわけだが,この場合には隣の八丈小島に流されるなどされたらしい.

産業

田畑,そして八丈絹.これに尽きる.

今でこそ,葉物の市場とか,観光とかが栄えているが,江戸当時は漁業とか牧畜を盛んにしようという発想には至らなかったようだ.

背景には,流刑地でもあることから船の製造が規制されたこと,また「四つ足」と言われる動物を食らうのを忌避したことが挙げられるそうだ.

すなわち島の食料は,もはや八丈絹による輸入頼みでしかなく,黄八丈の生産こそが八丈島の生命線だった.

これを織る女性の社会的地位は高かったといわれ,当時の人口比率でみても女性の方が若干多い.だからといって男子の間引きだとかは文献として残されていないようだが,人口の増えすぎは問題となるので,出生管理は少々行われていたらしい.これに関連した話では,内地(本州)への移民政策などもあったようで,特に未開墾の土地が多かった茨城に移り住むことがあったようだ.しかし現地の受け入れ態勢がままならず,成功例は多くなかったという.

産業の話に戻って,今でも島での重要な産品として知られる芋焼酎について書いておこう.

不作の島ゆえ青木昆陽先生に有名なサツマイモの生産が,島でも行われていたらしい.本格的な生産に至るまでは相当な年月があったようだが,飢饉の際にはこれに救われた島民も多かったという.

さて,島には娯楽も少ないゆえ,酒は格好の嗜好品だった.古くから伝わっていたのは米による濁り酒らしいが,食糧難の島で米がどれだけ貴重なものかは想像するに余りある.そこで芋による酒造りを思い立ったのは当然の帰結だろう.

伝説

ざっくりしか書かないが,女護ヶ島伝説というのがある.

出典は覚えていないが,その昔,八丈島には女が住み,隣の青ヶ島には男が住んでいたという.彼ら青ヶ島の男たちは年に一度,八丈島へ向かう.八丈島の女たちは浜にわらじを並べてこれを待った,などなど.

真偽不明ではあるが,前節に書いた通り女性の地位は高く,女護ヶ島伝説の背景に人口比率があるのは間違いないのではなかろうか.文献では,島に漂着した難破船の乗組員が島の女性たちに手厚くもてなされ,内地に帰った際に尾ひれがついて話が広まったのではないかと考察している.

なお源実朝八丈島に来た折,男女で島を住み分けるこの風習を止めさせたなども語られているところではあるらしい.

他屋

八丈島の昔の慣習のなかでもひときわ珍しく,そして悪しきものは他屋(たや)だ.

これは,女性の出産ないし月経時に血を避けて,別の家屋に移ることなのだが,出産時はともかく後者の場合にはその小屋に酒や肴を持った男が押し入り,夜通しランチキ騒ぎとなったという.

これは明治の世になって徹底的に取り締まられた.

まとめ

江戸時代の八丈島に関する文献のみを見ていたため,かなり尖った内容になってしまった.最近の島では観光業を中心に,農業では葉っぱや切り花の生産が,漁業ではくさやなどの生産が盛んだと聞く.こうしたデータに関しては東京都の八丈支庁が出している事業計画などが詳しい.

中でも気になったのは高速マイムマイムだ.普通に面白そう.

現在では羽田空港から八丈島空港まで55分で行けるようになり,アクセスに関してはもはや絶海の孤島ではない.日常生活に関しても不自由はほぼ無いといってよさそうで,携帯電話も大半のエリアで使用可能だ.現在の島の様子,ぜひ実際にこの目で確かめたいと思う.